整膚とリラクセンス・ボディセラピーを通して、体の手当て+心にも手当て

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”今ここ”にくつろぐ

2018/12/26

「今ここに生きる」

 

よく聞く言葉ですけれど、何となくイメージできるような、できないような

分かるような分からないような

どうにもはっきりしない感覚がありますよね?

わたし自身、ある程度理解しているとは思うのですけれど、でも自信をもって理解しているとは言えないかな?なんて、

目に見えないことはどうにも捉えどころがないような気がします。

 

 

「”今ここ”に生きさえすれば、悩みや不安や苦しみはない」とも言われますけれど、どうにも納得がいかない、というのが人情ですよね?

 

だって経済的なことを考えると不安だし、怖くなってくる・・・

仕事だって、いつまでできるのか考えると不安で・・・

あの時のあの人の言葉、今思い出してもフツフツと怒りが湧いてくる!

あぁ、何でもっとちゃんと勉強しておかなかったんだろう?

あぁ、あの時にこうしていれば・・・

 

 

たくさんの後悔や怒り、不安や恐怖は、人間なら一つや二つ、三つや四つ、数えきれないほどあって当たり前!ですよね?

わたしも心の奥底に大きな不安や恐怖を感じながら、何十年も生きてきました。

 

 

そんな時、こんな言葉に出合いました。

 

不安や恐怖を感じるのは、いつも未来のことだけ。

怒りを覚えたり後悔するのは、いつも過去のことだけ。

今この瞬間だけを切り取ったら、後悔も不安も何もないはず。

 

 

自分が存在しているのは、今この時、この場所、この瞬間だけ。

そしてその”今”は瞬間、瞬間に過ぎ去って、すぐに過去になっていく。

未来は一瞬のうちに”今”になり、一瞬のうちに過去になっていく。

そうやって過ぎ去っていくほんの一瞬の”今”だけを、過去とも未来とも切り離して、どれだけ感じ、味わうことができるか。

過去にどんなことがあろうとも、未来にどんな不安を感じていても、切り取られた”今ここ”がどれほど恵まれ幸せであると感じ取れるか。

だって確かに自分が存在しているのは、今この瞬間だけだから。

どんなに過去の出来事に執着しても、過去に生きることはできないし、どんなに未来の自分を夢見ても、未来なんてどうなるか分からない。

確かなのは”今ここ”の瞬間だけ。

幸せも”今ここ”の、この瞬間だけにしかないのですね。

 

 

リラクセンスは、そんな〝今ここ”のあなたの体に尋ねていくセッションです。

全ての答えは”今ここ”にある。

”今ここの自分の体にくつろぐ”という体験を通して、ご自分という存在の素晴らしさに気づいていただくきっかけとなったら、とてもうれしく思います。

 

 

 

全身全霊で寄り添われて・・・

2018/12/24

 

お客さまや友人から、「あんこちゃんに」と、素敵なお花をいただきました♡

 

 

 

 

いつまでもあんこのことを思ってくださるお気持ち、本当にありがとうございます♡

あんこもわたしも、幸せ者です。

 

 

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昨日、平成最後のお誕生日を迎えられた天皇陛下。

先週、事前に行われた記者会見の様子をご覧になった方も多いと思います。

いつものように静かに、でも時どき声を詰まらせながらご自身の来し方を振り返られたお言葉に、胸が熱くなりました。

 

 

どれほどの時間、どれほどの深い想いで、国のため、国民のために祈りを捧げ続けていらしたのだろう?

どれほどの時間、「国民に寄り添うこととは?」と、ご自身に問いかけ続けていらしたのだろう?

 

 

二度と戦争を起こしてはいけない。

その強い意志を持ちながらも、象徴天皇としてできることには限りがある。

それでは象徴天皇として何ができるのか?象徴天皇としてどう在るべきか?それを問い続けられた日々だったことをお話されたとき、

その言葉の裏にどれほどの苦悩があったのかを垣間見た想いがしました。

 

 

これまでの皇室の在り方を大きく変えられた決断。

そこには、常に想いを同じくして、ただひたすらに陛下を信じ寄り添われた美智子さまの存在は欠かすことのできないものであったと、感謝の気持ちに声を震わせられた時、

人はこれほどまでに信頼しきって寄り添いあうことができるのだと、その神々しさに胸が熱くなりました。

そして、そんなお二人と同じ時代に生き、そのお姿を拝見し、その深いお言葉に触れることができたことのありがたさが身にしみました。

 

 

わたしもずっと〝寄り添う”ということを追求し続けて、でも寄り添い切れない自分に情けない思いを抱くこともたくさんありますけれど、そうやって少しずつ分かってきたことがあります。

”寄り添う”ということに唯一の正解の形はなく、100%もない。

けれど、それが分かっていてもなお、相手が何を望んでいるのだろうか?と問い続け、寄り添おうとする姿そのものが”寄り添い”なのではないだろうか?と。

結果ではなく、そのプロセスそのもの、在り方そのものが、寄り添うということなのではないか?と。

 

 

ご自身の全存在をかけて、全身全霊で国と国民に寄り添ってこられた天皇陛下。

そしてお互いに寄り添いあうことで、その大変なお仕事を全うされようとしている両陛下。

そのお覚悟のほんの何百分の一でも良いから見習い、身につけたい。

そして”寄り添う”ということを在り方の軸にして、進み続けたいと思います。

 

 

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今日はクリスマス・イヴですねmomi2*

世界中の人たちに幸せが届きますようにキャンドルキャンドルキャンドル

 

 

 

皆さまも、どうぞ楽しいイヴの夜をお過ごしくださいね♪

 

 

 

ミチハ ワタシノナカニアル

2018/12/21

先日このブログでご紹介した1冊の本。

 

 

ミシャエル・エンデ著 「モモ」

 

以前にもお話ししましたが、この物語は不思議な力を持つ少女モモとその友だち、そしてモモが不気味な時間泥棒の集団と闘うというストーリーの児童書です。

児童書ではありますけれど、全ての大人たちにとっても、とても大切なことを考え、思い出させられるとても興味深い1冊だと思います。

 

 

このお話しの中で、カシオペイアという1匹のカメが登場します。

このカメはとても不思議な能力を持っていて、大切な場面でモモを助けるのですが、とても謎めいた言葉をいくつか残しています。

そのカシオペイアの言葉の一つが、わたしの心に深く残っています。

 

それは、モモとカシオペイアがとある場所へと急いでいる場面。

(カメなので)ゆっくり歩いて道案内するカシオペイアに、気が急いてじりじりするモモは「わたしがあなたを抱いちゃダメ?」と問いかけます。

その時のカシオペイアの返事は、こんな一言でした。

「ミチハ ワタシノナカニアル」

そう言うと、変わらずゆっくりとモモの前を歩き続けるのでした。

 

 

「道はわたしの中にある」

この言葉をどう受け止めるか、そこにはきっと個人差があると思うんですが、わたしはこんな受け取り方をしました。

 

わたしの進むべき道はわたしの中にあって、他の人には決してわからない。

そして、わたし自身の足で歩くのでなければ、それがどんな道なのかを知ることはできないし、目的地に辿り着くこともできない。

 

わたしがこのような解釈をするのは、整膚やリラクセンスというボディワークを仕事にしていることが大きく関係していると思います。

 

 

相手の体の中に答えがあるのだから、ただただ相手の体に答えを尋ねていく。

皮膚に触れ、相手の体の反応を引き出し、感じ取り、その反応をさらに広げるために、反応に寄り添っていく。

そして、体の反応に寄り添う施術で感じる体感は、他人の意図で動かされる場合とは全く異なり、自然に受け入れられるものなんです。

自分の体の望む動きなんですから、当然と言えば当然ですね。

そして自然に起こった反応から、自分は本当はどうしたかったのか、ということに初めて気づく方も多くいらっしゃいます。

 

言葉でいくら取り繕っても、体は正直に反応します。

そして、体の反応は頭で思考して答えを出すよりも、ずっと早く起こります。

体の反応こそ本能、その人の魂の声なのだと確信するようになりました。

 

そして受けてくださる方が口々におっしゃるのは、

「この感覚をどう表現したらいいか分からない」、「これは体感しないと分かりませんね!」

聞いた話で知っているのではなく、自分自身の体で経験する、体感するからこそ気づくことや理解できることがあって、それは頭や言葉を遥かに超える体験なんですね。

 

 

全ての人の中にその人の道があり、その人に関する問題の全ての答えは、その人の中に必ずあります。

それが、わたしの行う施術の大前提にあるものであり、それが全ての物事に通じる真理なのだと思います。

自分の体で経験したことや、その時の体感は、何よりも如実に”道”を示してくれるのですね。

 

 

手放すと受け容れられる

2018/12/14

今日は鼠径部が筋肉痛のわたしです(笑)

なぜそんなところが筋肉痛?

それは、昨日の午後、リラクセンスの研修会で施術をしてもらった結果です。

自分ではまったく気づいていませんでしたけれど、普段よっぽど緊張させていたようです。

「でもさぁ、リラクセンスって気持ちが良い施術っていつも言ってるのに、筋肉痛になるなんておかしくない?」

そんな声も聞こえてきそうですが・・・

 

 

いつもご説明しているように、リラクセンスは体に触れ体からの反応を引き出すことで、楽になるための答えを体に尋ねていくセッションです。

体から自然な反応が引き出されるので、日ごろ頭で考えている体の動きとは全く違う動きをすることがよくあります。

その結果として、普段使わない部分の筋肉をすごく動かす動きが出た場合、筋肉痛になることも時々あるんですね。

でもそれは、本来使うべき筋肉を使っていなかったから、というだけのこと。

その代わりに、使うべきではない部分の筋肉を緊張させてバランスを崩していたというわけなので、ほんの数日の筋肉痛を通り過ぎれば、本来の楽な姿に戻ります。

 

 

リラクセンスは、相手の体の問題の答えを、本人である相手の体に求めます。

相手の体からの答えを100%聴くためには、セラピスト本人の思い込みの枠を広げたり、前提としていることを変える必要があります。

でもわたしたちリラクセンスのセラピストも、普通の人間です。

一人ひとり様々な思い込みを持っています。

そして研修や練習会などで練習しあいながら、自分がどんな思い込みを持っているのか、体感を通して気づき、それを手放そうと努力し続けています。

そりゃ人間ですから、100%完全ということはあり得ません。

でも、だからこそ、少しずつでも自分を制限する思いこみに気づき、その枠を広げるための努力を続けています。

なぜなら、施術する側が強い思い込みを持っていると、相手の方の自由な動きを制限してしまいかねないから。

まず自分が思い込みや制限から少しでも自由になること。

それが相手の自由を認めることにつながるのです。

 

 

そんなふうに毎月一度、研修を重ねている仲間。

誰もが研修の度に、「これが難しい、あれが難しい」とか、「頭では分かっているのに、どうしてできないんだろう?」と、何度も同じ壁にぶつかったり、できたと思っていたのにできていなかったりと、じりじりする想いを抱えながら、それでも体得できるまで諦めずにがんばっています。

ひとつには、自然や森羅万象の全てを司る真理にもつながる、リラクセンスの概念の素晴らしさに惚れているから。

そして何よりも、体の奥底から心地良いと感じる施術だから。

 

そんなふうにして何か月も同じ空間で、同じ方向を見ながら一緒に進んでいる仲間同士、昨日の研修会では、とても不思議な感覚を共有しました。

それまで苦手としていたことが何故かうまくできるようになっていたり、不安を感じて対処できなかった状況にも楽に対処できたりと、

参加した誰もがそれぞれに、大きな壁をひとつ超えた経験をしたのでした。

そしてその個人の体験を、一緒にいた仲間も感じることができた。

その空間の何とも言えない軽やかで温かな心地よさは、これまで体験したことのないものでした。

 

 

それまでは、自分の思い込みの枠を超えた相手の反応に対して、無意識のどこかで抵抗していたのが、「ま、いっか」と、ある意味で諦められた、と言った仲間がいました。

 

自分を通そうとすることを諦めた。

自分の枠を外れるものに抗うことを諦めた。

 

「ま、いっか」と思えることって、とても大きなことなんですね。

その瞬間に自我に執着することを止め、自由になれる。

自我に執着しなくなると、逆に自分をあるがままに受け容れられるようになる。

あるがままの自分を受け容れられると、他者をもより深く受け容れることができる。

 

そんな瞬間が、昨日みんなの上に同時に起こった。

それぞれが自由になった感覚が、お互いに影響しあったということなのかもしれません。

これが「循環」なんですね。

 

 

ひとつ壁を超え自由になることができた昨日の感覚、今も体に残るその感覚を大切に、さらに深め広げていこうと思います。

昨日みんなで共有したあの自由で軽やかな感覚をこれからもずっとお客さまとの間でも共有し循環させられるよう、

そのためにも、いつも、もっと自由なわたしであり続けたいと思います。

 

 

施術だけど施術じゃないって? ― 心身一如

2018/12/11

先日のことでした。

リラクセンスを中心としたセッションの後お茶を飲みながら、「まだ現実に戻り切らないです」と言いながら、お客さまがこんなことをおっしゃいました。

「リラクセンスって施術じゃないですよね。」

そう言われてから、変なことを言ってしまった!!と思われたようで、慌てて付け足されました。

「あ、もちろん施術なんですけど、、、でもよく施術って言われるものじゃないですよね。ワーク?っていうのかな・・・分かります?」

言わんとすることは何となく察知できたので、こうご説明しました。

「リラクセンスって、正式名はリラクセンス・ボディ・セラピーって言うんですよ」

するとその方は、「そうそう、セラピー!そうです!」と。

そして感じたことをつとつとと話してくださいました。

 

これって、無意識にアクセスするものなんですか?

本当は違うのかもしれないけど、無意識の部分をすごく刺激された感じです。

実はわたしこんなことを感じていたんだなぁって、分かったような、、、

無意識で考えていたことが引き出されたような気がします。

 

 

リラクセンスも整膚も、心や感情などのメンタルを癒すことを直接の目的とはしていません。

あくまでも体を楽にするために体へアプローチするものです。

もっと言えば(これまでも何度もお伝えしているように)、「癒そう」という意図さえしないようにしています。

単に体の自然な反応を検査しているだけ。

でもだからこそ、この方が言われるように、無意識の体や心の反応を引き出すことができるのだと思います。

 

 

わたしたちは普段、気づかないうちに頭で考えたことを表現しながら生活しています。

全てを頭でコントロールすることが当たり前であり、それに慣れきっています。

思考有利になっているんですね。

けれど、頭で「こうしたい」と考えることと無意識で望んでいることとが、必ずしも一致しているわけではありません。

もし一致していない場合、いつも頭で判断することしかしなければ、無意識の望みを知ることはできませんよね。

いえ、そもそもギャップがあることにすら気づけないでしょう。

 

 

わたしはセッションを通して、その時どきに体はどのように自然な反応を返してくるのかを検査し、その反応からさらにその先の反応を引き出して、体が自分で自分を癒していくためのきっかけ作りをしています。

体と心、無意識でつながっているのですから、体が楽になれば心も楽にならないはずがないですよね。

 

 

とはいえ、セッションを受けてくださる全ての人が、この方のようにその場ですぐに、明確に、心や気持ちの変化を口にされるわけではありません。

人それぞれ、その時どきに、何を大切に思い、何にフォーカスしているかは様々です。

心身両面の変化を口にされる方もいらっしゃれば、体の変化だけを事細かく伝えてくださる方もいらっしゃいます。

それでも確かに言えるのは、体と心は分けることなどできない、両方あって一人の人間を作っているのだから、本人が気づくと気づかないとに関わらず、深い部分で双方に影響は及んでいるはず、ということ。

 

 

 

他の施術とは違う、リラクセンスをリラクセンスで足らしめているものを、言葉でも頭でもなく、体で受け止めてくださっていることが、とても嬉しく、とてもありがたいです。

これはいくら頭で考えていても、体験しなければ、体で感じなければ本当の意味で理解しきれないこと。

やはり体感することが全てですね。

 

 

体からのサイン、放りっぱなしにしていません毛?

2018/12/9

昨日から急に冷えていますが、体調管理は万全ですか?

最近お客さまだけでなく、いろいろな方にお話しすることが多いなぁと感じることがあるのですが、ぜひ皆さまにも心にとめていただきたいので、お伝えしようと思います。

皆さまは“痛み”をどのようなものとして受け止めていらっしゃいますか?

ちょっとした違和感を感じながら、「でも痛くないからまだ大丈夫~」とケアを後回しにしていること、ありませんか?

お話しをうかがっていると、そういう方は本当に多いんです。

違和感は体からのサイン。

痛みも体からのサイン。

違和感を感じた段階ですぐにケアすれば早く簡単に楽になれるのに、その段階で体からのサインを無視して放っておくと、体は「この人、この程度の警告じゃ分からないのか!」と、次の段階である“痛み”という形で次のサインを送ります。

痛みが出てしまってからでは、元に戻るまでにもっと時間も手間もかかってしまいます。

体は“違和感”や“痛み”、その他様々な手段を使って、わたしたちに体や心の状態を知らせるために、いつもサインを送ってくれています。

そのサインにどれだけ気づけるか?

そのサインをどれだけちゃんと受け止めて応えることができるか?

体や心の健康を保てるかどうかは、それにかかっていると言えるんですね。

普段まったくと言っていいほど体のことなんて意識をしていないから、サインにほとんど気づけない、という方もいらっしゃいます。

でもたいていの方は、サインには気づいているんです。

しかも違和感の段階で。

でも、気づいているにもかかわらず、「まだ大丈夫~」と真剣に受け止めず、そのサインに応えることを先伸ばしにしてしまったがために、どんどん悪い状態へと自分自身を追い込んでしまっている。

違和感に気づいた段階で応えていさえすれば、すぐに楽になることが分かっているはずなのに、です。

本当にもったいない話です。

でも、こういう理屈に合わないことをなぜか“つい”してしまうのが、わたしたち人間の習い性なのかもしれません(笑)

中には、こんなケースも。

違和感の段階で何もせず、痛みが出てから慌ててケアをする。

しかも自己流で揉んだり無理やり伸ばしたりしてしまい、かえって痛みが増したり、状態をもっとひどくしてしまった・・・

そんな方も多く、最近その手のケアをさせていただくことが多々あります。

 

ちょっとした違和感を感じたら、「痛みがないから“まだ”大丈夫」と高をくくらないで、きちんと体の声に応えてあげてくださいね。

そうすればお金も時間も節約で知るし、何より自分が楽なんですから♪

それが、体を大切にする、体の声を聴くということです。

そして、自分自身を慈しむということです。

 

 

ボランティア施術~嬉しいこと、残念に思うこと

2018/12/7

今日は開業の年以来続けている、市内の高齢者施設でのボランティアの施術に行ってきました。

今日も気持ち悪いくらい暖かい一日。

沿道も、、、

 

オシロイバナが咲いていたり、

 

 

ユウガオ(?)が咲いていたり、

 

 

桜の木が芽吹いていたり。。。

 

今年の気候の異変は異常ですね。

 

そんな道のりをてくてく歩いて向かったいつもの施設。

たいていは2階と3階のデイルームで施術させていただくのですけれど、昨日はわたしが2階に到着するなり、ある女性職員さんが、「あ~、ずっとやり方を教わりたかったんですよ~!」と、声をかけてくださいました。

「前に教えていただいたじゃありませんか。あれからお風呂の中でいつもやっているんですけど、太腿がどうしてもうまくできなくて汗②

で、お仕事の合間に、わたしが入所者さんに施術しているのを横から見ながら、そばにいる同僚女性の腕をプニプニ。

わたしも施術しながら、もう一度彼女にやり方をお伝えしたのですが、こんなに熱心に取り組んでくださっているなんて、感激です汗①

きっとあの方が入所者さんに触れるとき、その触れ方もとても優しく心地よいはずですね。

素敵だなキラキラ

 

その後も、いつものように皆さん「気持ち良いねぇ」と言ってくださったり、ウトウトされたり、ゆったりとした空気感を楽しんできました。

 

 

そんなうれしいことがあった半面、ちょっと悲しく考えさせられることもありました。

それは、ある女性入所者さんに施術させていただいていた時のこと。

その方は、体の自由があまり効かず、それでも手をゆっくりと少し動かすことはできる、言葉もかなりたどたどしいですが、それでも意思の疎通はできる、という状態の方なのですが、こんなことをおっしゃったんです。

「ずっと週に2回マッサージを受けていたんだけど、保険がきかなくなっちゃって、これまで500円だったのに5000円になっちゃったの。払えないからやめるしかなかったの」

う~ん、、、

制度上仕方のないことなのでしょうけれど、、、わたしまでとても切なくなりました。

特にこの方くらいの状態だと、マッサージなどの施術を定期的に受けられるかどうかって、この状態を維持するためにはとても大きなこと。

それが分かっていながら、それを辞めざるを得ない。

仕方ないと分かっていても、割り切れない思いが残ります。

わたしはあまり詳しくはないけれど、そしてこういった問題はこの方に限ったことではなく、きっと介護保険を利用されるほとんど全ての方が直面する問題なんでしょうね。

これからますますニーズが増えそうな半面、財政が厳しい現状。

必要とする人に必要な介護が届くように、制度が整っていくと良いのですが。。。

 

 

わたしはボランティアで通っているので、少しはこういう方のお役に立てるかな?とは思うのですけれど、やっぱりボランティアはボランティアなんですよね。

私の通っている施設では、1月~3月の間は感染症対策のため、全てのボランティアや面会者が入れなくなってしまうんです。

契約していらっしゃるマッサージ師の方などは入れると思うんですけど。

もちろんわたしが施術できたからといって、どれほどのお力になれるか定かではありませんけれど、

それでも、どんな施術よりもご高齢者に負担なく楽になっていただける施術だということへの確信があるので、体が固まってしまいがちなこの時期だからこそ、長期間施術をさせていただくことができないのは、正直残念でなりません。

もっと皆さんのお役に立つためにも、皆さんにもっと楽になっていただくためにも、もっともっと整膚やリラクセンスの素晴らしさを伝えていかなくちゃ!

 

 

明日は一日、リラクセンスの講習や交流会。

たくさん吸収してきます!

 

 

「なんで?不思議~!」でも魔法ではありません

2018/12/6

わたしの行っている調律(施術)は、一般的な施術と言われるものとはちょっと違います。

初めて受けてくださったほとんどの方は、「え?なんで?」と驚かれます。

「こんなことで何で痛みがなくなったの?」というのが実感なんだと思います。

これまでマッサージや整体など、ありとあらゆる施術を受けてきたわ!という方でも、「こんなの初めて!」と言われます。

「こんなことで、何で?」という言葉の意味は、、、

たいていの施術のように、”施術された感”が全くないからだと思います。

 

 

先日、こんなことがありました。

 

地元の子ども食堂のボランティア仲間が、バドミントンで右肩や上腕を痛めてしまった、鍼を打ってマッサージをしてもらってやっと少し腕が上がるようになったけど、、、

そう言いながら腕を上げて見せてくれたのですけれど、肩より上にはどうしても上がりません。

ちょうど時間があったので、そこに立ったままリラクセンスをしていると、「これって氣とかですか?」と。

いえいえ、確かにわたしは氣療もやるけれど、「これでも施術なのよ~」とわたし。

右肩を挟むようにして両手をそっと触れながら、皮膚がどう動きたいのか、反応をみていたのですけれど、すっかり緊張しきってしまっている皮膚は、ご本人ですら動いていると分からないほど、ほんのわずかしか動きません。

だから施術されているとは思わなかったようです(笑)

でもね、ほんのわずかでも動いているんです。

そのほんのわずかな動きにわたしの手を寄り添わせていると、だんだんと肩関節の前側が開いてきたんです。

なにか変化を感じない?と尋ねると、

「あ、そういえばジワ~ッとしてきた」

「あ、なんかすぅ~っと軽くなってきた!なんで?不思議~!」

そして15分くらいたった後、恐る恐る腕を上げると、すぅ~っと肩よりはるか上に腕が上がっているではありませんか!

「やだぁ、なんで???」

「天野さんの手、魔法の手?」

思わず大笑いしてしまいました。

 

 

これは魔法でも何でもなくて、体の反応によるもの。

いつも皆さまにお伝えしていることですけれど、もともと体には自分を調える力が備わっています。

いつもどんな時にも、体は自らのバランスを調える力を備えています。

体は楽になる方法をちゃんと知っているのです。

体って、本当にすごいんですよ!!

わたしがやっているのは、皮膚に軽く触れて、その時の皮膚の動き・反応を感じ取ることによって、体にその方法を尋ねている、それだけなんです。

だから受けてくださる方にとっては、ただ軽く触れられているだけとか、ただ軽く揺られている程度にしか感じられないので、「これだけなのに?」と感じられるんですね。

 

 

施術をした後30分ほどしてから、配膳しながら彼女が、「さっきよりももっと腕が上がります~!」と嬉しそうに報告してくれました。

施術直後よりも数時間後、数日後のほうがさらに状態が良くなるというのも、皆さまからよく言われること。

体の良くなろうとする力が引き出され、ちゃんと働くようになると、施術後もいい方向に回転が促され、上り調子が続くんですね。

ですので、施術後の数日間は、いつも以上にご自分の体の変化を意識して、その変化を楽しむようにしてくださいねと、いつもお伝えしています。

そうやって自分の体の変化を意識し、感じようとする姿勢が、自分で体や心を調える大切な一歩になるのだと思います。

 

 

 

彼女からの「なんで?不思議~!」の言葉を聞いて、そして彼女の嬉しそうな顔を見て、

体の力をもっと信頼することがどれほど大切なことか、素敵なことか、もっともっと皆さんに伝えていきたい!伝えていかなくちゃ!と思いました。

「こうやって簡単に楽になれるんだよ!もっと楽に痛みってとれるんだよ!」って。

 

 

モモ ー 時間って何だろう?

2018/12/4

12月だというのに気持ち悪いくらい暖かかった今日一日。

この冬は暖冬と言われていますけれど、明日から週末にかけてはコトンと気温が下がるようですから、くれぐれも体調には気をつけてくださいね!

 

 

先日、図書館で借りた本。

 

ミヒャエル・エンデ著 「モモ」

 

有名な本なので、読まれたことのある方も多いかと思います。

わたしも題名だけは知っていたのですけれど、読んだのは今回が初めて。

児童文学に分類されてはいますけれど、大人が読んでも充分読み応えのあるファンタジーです。

いえ、むしろこれを子どもが理解できるのかしら?というような、哲学的な要素を含む内容でした。

 

読み終えてふと感じたことがあったので、それをお伝えしたいと思ったのですが、その前に大まかな内容を・・・。

ただ、これからお読みになる方もいらっしゃると思うし、原文にとても意味や味わいがある物語なので、細かい点は抜きにして、ざっくりとだけお伝えすると・・・

 

 

ある時代のある街に、いつの間にか居つくようになった少女モモ。

父親や母親が誰なのかも、いつ生まれたのかも、どこから来たのかも全く分からない。

言葉や数字の知識も、その年頃の子どもの水準に満たないという、なずだらけの女の子。

でも彼女の不思議な魅力に引き付けられ、街の人たちは大人も子どももみんな、モモのことが大好きになりました。

そしてモモも、みんなのことが大好きで、みんなモモにとって大切な友だちとなったのです。

そんな優しくて大好きな街の人たちに囲まれて、モモは楽しく毎日を過ごしてました。

 

ところが、街に「灰色の男たち」が現れるようになってから、街も友だちたちも、様子が全く変わってしまったのでした。

 

 

ここからはちょっとネタバレをするので、これから読もうと思っている方は、この先は読まない方が良いかもしれません。

 

 

街へやってきた灰色の男たち。

少し読み進んでいくと、彼らは「時間泥棒」だということが判明します。

時間泥棒。

ターゲットにした人間を、無駄な時間を節約させて、その時間を将来のために貯蓄するという甘い誘い文句で誘導します。

その誘いにのった人々は、友だちとのちょっとしたおしゃべりの時間や、のんびりお散歩する時間や、何の目的もない創造的な遊びの時間を、全て生産性のない無駄な時間と見なし、どんどん切り捨てるようになっていきます。

その結果、町中にあふれていた笑い声も、のんびりとした空気も、みんなすっかり変わり、ギスギスするようになってしまうのです。

そんな状況に、モモにどんなことが起こるのか・・・

 

 

その先はぜひ読んでいただきたいと思うのですが。。。

 

 

この物語でテーマとなっている「時間」

形もなく音もなく、触れることもできない、でも確かに存在する「時間」

そして、その時間が足りないと文句を言ったり、かと思えば時間が余ってもて遊んだり、時間についてわたしたちが話題にしない日は無いくらいですよね?

そんなごく当たり前にあるものと思っている時間。

でも、時間ってなんて不確かなものなんだろう?

いえ、確かにこの地球上で時間の流れは存在している(と思っている)けれど、それは誰にとっても同じものなんだろうか?

だれにとっても同じ密度、同じ速さで流れるものなんだろうか?

同じ人にとっても、時によって体感する時間の長さが違うこともありますよね?

楽しいひと時を過ごしている時は、時間はあっという間に流れる気がするし、退屈な時間を過ごしていると、遅々として進まなくてジリジリする。

そんな経験はだれにでもありますよね?

 

時計が刻む正確な1分1秒と、

その時々によって、また人によって違って感じる時間の流れ、

どちらが真実なんだろう?

どちらの物差しが自分にとって正しいんだろう?

いったい時間の意味って何だろう?

 

 

そんなことを考えていたら、ふと、苦しみの中にいた時のことを思い出しました。

苦しみの真っただ中にいた、まさにその時、わたしにとって時間は姿の見えない敵だったな、と。

いつ終わるのか分からないまま、早くこの苦しく辛い時間が過ぎてくれれば!と、ただ願うばかりの時間だったんですよね。

でも後から考えると、苦しかったからこそ理解できたことがたくさんあって、あの時間は自分を成長させてくれた大切な経験だったと分かりまします。

それはその時間が既に過去のことになった今だから理解できることで、あの時はただただ苦しいばかりでした。

 

でも、苦しんだ時間やそこから得た経験が自分にもたらしてくれたものの尊さがもう分かったのだから、これからは最初からその苦しみの時間そのものの意味付けを変えることもできるんじゃないかな?

そうしたら、その時間は既に苦しいだけのものではなくなって、全く違う感覚でその同じ時間を過ごすこともできるんじゃないか?

そしてその時間から得られる経験も、もっと密度の濃いものになるんじゃないかな?

 

上手く表現できないんだけど、意識次第で自分にとっての時間の質や経験の質を変えることって可能なはずだよね?

そうしたら、毎日何気なく過ごしている時間が、とても大切なものになるはずだよね。

 

自分にとっての時間について考えていたら、いろんな想いが浮かんで来たのでした。

 

 

時間って、誰にでも平等に与えられるものだけど、その時間をどんなふうに彩るのか、どんな経験で満たすのかはその人次第。

苦しい時間も自分を成長させてくれる一つの経験なんだと意識して、しっかりと向き合って味わうことができれば、同じ時間でも、きっとより濃密な時間となるのでしょうね。

そして、一見無駄に見えるような時間こそが、もしかしたらとても大切な一瞬となり得るのかもしれませんよね。

 

 

-追記―

最初の方で、こんな哲学的な要素を含んだ物語を子どもが理解できるのだろうか?と書きましたけれど、

もしかしたら大人よりも頭でっかちになっていない子どもの方が、理屈じゃなくて体で理解できるものなのかもしれませんね~!

 

 

父親の背中から学んだ幸せ

2018/11/30

 

今日は体とは全く違うお話しなのですが、、、

 

 

某国営放送で舗装されている「サラメシ」という番組をご存知ですか?

サラリーマンの昼飯でサラメシ。

タイトル通り、働く人のランチの時間の様子を取材した番組なのですが、

お弁当を作る人の家族への愛情や想いが見えたり、

新入社員が緊張の続く仕事時間の合間に、ランチタイムでやっと緊張がほどけ笑顔が表れたり、

様々な職種の人たちの仕事の現場での食事風景は、単なる食事を撮影するだけでなく、その生きざままでも垣間見ることができ、興味深く、またとても心温まる想いがします。

 

先日放送されたその番組で、思わず目頭が熱くなったお話がありました。

 

 

それはある女性から、定年を迎える父親の最後のサラメシの様子を取材してほしいとの投稿によるものでした。

娘さんであるその女性は東京住まいですが、父親は故郷の新潟の会社で、その日最後のお勤めを迎えていました。

いつものように業務をこなし、いつものように会社のビルに入っているお店で、いつものように日替わりランチを注文。

ランチ時間もいつものように新聞を読んで時間を過ごし、いつものように午後の業務を終え、社員に見送られて会社を後にしたのでした。

会社を後にしたその父親に取材者が声をかけ、娘さんからの取材依頼の手紙を父親に手渡しました。

その内容は、、、

 

 

都会のような満員の通勤電車に揺られることもなく、毎日変わりなく会社に行き、ほとんど毎日のように定時に帰宅する父親を、若い頃は何の楽しみもないつまらない人生だな、と思っていたと。

でも、自分も大人になり仕事をするようになり、結婚して母となり、子どもを育てるようになった今、当たり前に生活するということがどれほど大変なことなのかを実感するようになり、

長年にわたって家族に当たり前の生活をさせるために、父親はどれほどの苦労をしてきたのか、どれほど下げたくない頭を下げてきたのか・・・。

改めて父親の偉大さを知り、わたしたち家族を養うためにがんばってくれた父親を、心から誇りに思う。

長い間、本当にお疲れさまでした。

 

 

詳しい言葉は覚えていないのですけれど、そんな内容のことが書かれていたと記憶しています。

この時きっとこの娘さんは、物言わぬお父さまの背中から伝わる深い想いを受け取られたのではないかな・・・

そんな気がしました。

 

 

わたしは結婚していませんし、子どもを産み育ててもいないので、親としての苦労はほとんど理解していないと思います。

けれど自営業として働き始め、こうして自分ひとりですら当たり前の生活を維持することは決して簡単ではありません。

そんな経験をして初めて、父親の偉大さを本当の意味で理解した気がしたことを思い出しました。

 

 

どんなに大きな変化がないと感じても、大きな成功には程遠いと思っても、毎日を当たり前に過ごせていること自体が、実はとても奇跡的なことなんですよね。

今ここで命を続けさせてもらっている、それが大きな奇跡。

ともすれば忘れてしまいがちな、足元の小さな安定や喜びを忘れずにいられること、それが幸せなのだな、と思います。