整膚とリラクセンス・ボディセラピーを通して、体の手当て+心にも手当て

contact
access

ブログ

モモ ー 時間って何だろう?

2018/12/4

12月だというのに気持ち悪いくらい暖かかった今日一日。

この冬は暖冬と言われていますけれど、明日から週末にかけてはコトンと気温が下がるようですから、くれぐれも体調には気をつけてくださいね!

 

 

先日、図書館で借りた本。

 

ミヒャエル・エンデ著 「モモ」

 

有名な本なので、読まれたことのある方も多いかと思います。

わたしも題名だけは知っていたのですけれど、読んだのは今回が初めて。

児童文学に分類されてはいますけれど、大人が読んでも充分読み応えのあるファンタジーです。

いえ、むしろこれを子どもが理解できるのかしら?というような、哲学的な要素を含む内容でした。

 

読み終えてふと感じたことがあったので、それをお伝えしたいと思ったのですが、その前に大まかな内容を・・・。

ただ、これからお読みになる方もいらっしゃると思うし、原文にとても意味や味わいがある物語なので、細かい点は抜きにして、ざっくりとだけお伝えすると・・・

 

 

ある時代のある街に、いつの間にか居つくようになった少女モモ。

父親や母親が誰なのかも、いつ生まれたのかも、どこから来たのかも全く分からない。

言葉や数字の知識も、その年頃の子どもの水準に満たないという、なずだらけの女の子。

でも彼女の不思議な魅力に引き付けられ、街の人たちは大人も子どももみんな、モモのことが大好きになりました。

そしてモモも、みんなのことが大好きで、みんなモモにとって大切な友だちとなったのです。

そんな優しくて大好きな街の人たちに囲まれて、モモは楽しく毎日を過ごしてました。

 

ところが、街に「灰色の男たち」が現れるようになってから、街も友だちたちも、様子が全く変わってしまったのでした。

 

 

ここからはちょっとネタバレをするので、これから読もうと思っている方は、この先は読まない方が良いかもしれません。

 

 

街へやってきた灰色の男たち。

少し読み進んでいくと、彼らは「時間泥棒」だということが判明します。

時間泥棒。

ターゲットにした人間を、無駄な時間を節約させて、その時間を将来のために貯蓄するという甘い誘い文句で誘導します。

その誘いにのった人々は、友だちとのちょっとしたおしゃべりの時間や、のんびりお散歩する時間や、何の目的もない創造的な遊びの時間を、全て生産性のない無駄な時間と見なし、どんどん切り捨てるようになっていきます。

その結果、町中にあふれていた笑い声も、のんびりとした空気も、みんなすっかり変わり、ギスギスするようになってしまうのです。

そんな状況に、モモにどんなことが起こるのか・・・

 

 

その先はぜひ読んでいただきたいと思うのですが。。。

 

 

この物語でテーマとなっている「時間」

形もなく音もなく、触れることもできない、でも確かに存在する「時間」

そして、その時間が足りないと文句を言ったり、かと思えば時間が余ってもて遊んだり、時間についてわたしたちが話題にしない日は無いくらいですよね?

そんなごく当たり前にあるものと思っている時間。

でも、時間ってなんて不確かなものなんだろう?

いえ、確かにこの地球上で時間の流れは存在している(と思っている)けれど、それは誰にとっても同じものなんだろうか?

だれにとっても同じ密度、同じ速さで流れるものなんだろうか?

同じ人にとっても、時によって体感する時間の長さが違うこともありますよね?

楽しいひと時を過ごしている時は、時間はあっという間に流れる気がするし、退屈な時間を過ごしていると、遅々として進まなくてジリジリする。

そんな経験はだれにでもありますよね?

 

時計が刻む正確な1分1秒と、

その時々によって、また人によって違って感じる時間の流れ、

どちらが真実なんだろう?

どちらの物差しが自分にとって正しいんだろう?

いったい時間の意味って何だろう?

 

 

そんなことを考えていたら、ふと、苦しみの中にいた時のことを思い出しました。

苦しみの真っただ中にいた、まさにその時、わたしにとって時間は姿の見えない敵だったな、と。

いつ終わるのか分からないまま、早くこの苦しく辛い時間が過ぎてくれれば!と、ただ願うばかりの時間だったんですよね。

でも後から考えると、苦しかったからこそ理解できたことがたくさんあって、あの時間は自分を成長させてくれた大切な経験だったと分かりまします。

それはその時間が既に過去のことになった今だから理解できることで、あの時はただただ苦しいばかりでした。

 

でも、苦しんだ時間やそこから得た経験が自分にもたらしてくれたものの尊さがもう分かったのだから、これからは最初からその苦しみの時間そのものの意味付けを変えることもできるんじゃないかな?

そうしたら、その時間は既に苦しいだけのものではなくなって、全く違う感覚でその同じ時間を過ごすこともできるんじゃないか?

そしてその時間から得られる経験も、もっと密度の濃いものになるんじゃないかな?

 

上手く表現できないんだけど、意識次第で自分にとっての時間の質や経験の質を変えることって可能なはずだよね?

そうしたら、毎日何気なく過ごしている時間が、とても大切なものになるはずだよね。

 

自分にとっての時間について考えていたら、いろんな想いが浮かんで来たのでした。

 

 

時間って、誰にでも平等に与えられるものだけど、その時間をどんなふうに彩るのか、どんな経験で満たすのかはその人次第。

苦しい時間も自分を成長させてくれる一つの経験なんだと意識して、しっかりと向き合って味わうことができれば、同じ時間でも、きっとより濃密な時間となるのでしょうね。

そして、一見無駄に見えるような時間こそが、もしかしたらとても大切な一瞬となり得るのかもしれませんよね。

 

 

-追記―

最初の方で、こんな哲学的な要素を含んだ物語を子どもが理解できるのだろうか?と書きましたけれど、

もしかしたら大人よりも頭でっかちになっていない子どもの方が、理屈じゃなくて体で理解できるものなのかもしれませんね~!

 

 

父親の背中から学んだ幸せ

2018/11/30

 

今日は体とは全く違うお話しなのですが、、、

 

 

某国営放送で舗装されている「サラメシ」という番組をご存知ですか?

サラリーマンの昼飯でサラメシ。

タイトル通り、働く人のランチの時間の様子を取材した番組なのですが、

お弁当を作る人の家族への愛情や想いが見えたり、

新入社員が緊張の続く仕事時間の合間に、ランチタイムでやっと緊張がほどけ笑顔が表れたり、

様々な職種の人たちの仕事の現場での食事風景は、単なる食事を撮影するだけでなく、その生きざままでも垣間見ることができ、興味深く、またとても心温まる想いがします。

 

先日放送されたその番組で、思わず目頭が熱くなったお話がありました。

 

 

それはある女性から、定年を迎える父親の最後のサラメシの様子を取材してほしいとの投稿によるものでした。

娘さんであるその女性は東京住まいですが、父親は故郷の新潟の会社で、その日最後のお勤めを迎えていました。

いつものように業務をこなし、いつものように会社のビルに入っているお店で、いつものように日替わりランチを注文。

ランチ時間もいつものように新聞を読んで時間を過ごし、いつものように午後の業務を終え、社員に見送られて会社を後にしたのでした。

会社を後にしたその父親に取材者が声をかけ、娘さんからの取材依頼の手紙を父親に手渡しました。

その内容は、、、

 

 

都会のような満員の通勤電車に揺られることもなく、毎日変わりなく会社に行き、ほとんど毎日のように定時に帰宅する父親を、若い頃は何の楽しみもないつまらない人生だな、と思っていたと。

でも、自分も大人になり仕事をするようになり、結婚して母となり、子どもを育てるようになった今、当たり前に生活するということがどれほど大変なことなのかを実感するようになり、

長年にわたって家族に当たり前の生活をさせるために、父親はどれほどの苦労をしてきたのか、どれほど下げたくない頭を下げてきたのか・・・。

改めて父親の偉大さを知り、わたしたち家族を養うためにがんばってくれた父親を、心から誇りに思う。

長い間、本当にお疲れさまでした。

 

 

詳しい言葉は覚えていないのですけれど、そんな内容のことが書かれていたと記憶しています。

この時きっとこの娘さんは、物言わぬお父さまの背中から伝わる深い想いを受け取られたのではないかな・・・

そんな気がしました。

 

 

わたしは結婚していませんし、子どもを産み育ててもいないので、親としての苦労はほとんど理解していないと思います。

けれど自営業として働き始め、こうして自分ひとりですら当たり前の生活を維持することは決して簡単ではありません。

そんな経験をして初めて、父親の偉大さを本当の意味で理解した気がしたことを思い出しました。

 

 

どんなに大きな変化がないと感じても、大きな成功には程遠いと思っても、毎日を当たり前に過ごせていること自体が、実はとても奇跡的なことなんですよね。

今ここで命を続けさせてもらっている、それが大きな奇跡。

ともすれば忘れてしまいがちな、足元の小さな安定や喜びを忘れずにいられること、それが幸せなのだな、と思います。

 

 

体を調律する

2018/11/24

 

『調律』とは

楽器の音高を演奏の目的にあった状態に整えること。音質や音色が問題で明確な音高を必要としない楽器(ゴング、ドラム、シンバルなど)の場合は「整音」とよぶが、広義の調律にはこの「整音」や、楽器の演奏機構を整備する「調整」などの作業も含まれる。

―日本大百科全書(ニッポニカ)―

 

 

 

10日ほど前に、あるお客さまから1通のメールをいただきました。

リラクセンスの施術を受けてくださった後のご様子をお伝えしてくださるとともに、1冊の本をご紹介くださいました。

 

宮下奈都 著 『羊と鋼の森』(文藝春秋)

 

 

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

ピアノ調律師を目指す青年の心の成長と周りの温かな人々のお話で、文体が静かで美しくて情景が目に浮かんできます。
ピアノ調律師の人々が描かれているのですが、天野さんのお仕事ととても似ているなぁと思いながら読んでいました。
読んだことありますか?
もし読んでいらっしゃらなければ読んでください。とてもステキな本です。
それがお伝えしたくてメールしました。

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

 

 

映画化されて話題になっていた時、一度読んでみようと思ったのですけれど、そのまますっかり忘れていたことを思い出しました。

この方がわたしの仕事とピアノの調律師という職業の間に、どのような共通点を感じてくださったのだろう?ということも知りたかったので、すぐに図書館で借りて読んでみました。

 

 

読み始めてすぐに、この方がおっしゃっていたように、森の景色が浮かんでくるような、空間に響く音色まで聞こえてくるような美しい文章に、知らず知らずのうちにすっかり物語に引き込まれていました。

そして、これまで全く知らなかった調律の世界と、わたしが施術で行なっていることに、これほどまでに共通点があるのだということを知り、

ドキドキするような、ワクワクするような、それでいて胸の奥の方がシンと静まり返るような、不思議な感覚にとらわれて夢中になって読みました。

そしてふとした瞬間に、「体を調律する」という言葉が浮かんで来たのです。

 

 

 

ボディワークの仕事を始めて8年半になりますけれど、本当に恥ずかしいことに、わたしはわたし自身が行っている施術を、どうやったらうまく伝えられるのか、これまできちんとつかめずにいたんです。

整体やマッサージとも違う。

単なるリラクゼーションだけでは足りない。

セラピストや施術家が型や技術を駆使して、相手の体を良くしようと働きかける施術とも違う。

むしろ相手の体の声を聴くために、相手の体の反応を感じ取るためには、「良くしてあげよう」という気持ちすらジャマになる。

相手の体の自然な反応を引き出すこと、そしてその反応にただ寄り添うだけで、体が自ら自分自身を癒し始める。

そんな、これまでのどんな施術とも違うボディセラピーをうまく説明する言葉を、どうしても見つけることができずに、ジリジリとし続けていました。

 

 

それと同時に、「セラピスト」という言葉も、わたしにはずっと違和感がありました。

なぜなら、先ほども書いたように、「良くしてあげよう」というわたしの想いは、相手の体の微細な反応をキャッチするうえでは、むしろジャマになってしまうから。

だからセラピストというよりは、体の声を聴く”職人”のような存在でありたいと思っていたんです。

 

 

そんなふうに長い間、自分の仕事を適切に表現することができない焦燥感を持ち続けていたのですけれど、

この本に描かれている調律師という仕事に触れたとき、音楽と体という全く遠い世界でありながら深く共感するものがあり、『調律する」という言葉が不思議とストンと自分の中に納まったような感覚を覚えたのでした。

 

 

 

ピアノの調律師の仕事は、ピアノという楽器を、それを演奏するピアニストに合うように、演奏される場所や環境に最も合うように調えること。

本の中で描写されているその作業の様子は、わたしが施術で体に触れている時と全く同じだなぁと感じます。

ピアノ(相手の体)に耳を傾け、ピアノ(相手の体)全体の調和を図り、そのピアノ(相手の体)の長所を最大限引き出して、最高のパフォーマンスを実現できるよう努力する。

そこではあくまでもピアノ(相手の体)やピアニスト、またはその演奏そのものが主役なので、調律師(セラピスト)の個性や技術が前面に表れないことの方が評価される。

 

ただ一つ大きく違う点は、ピアノの音色を作るのは調律師の腕の見せ所と言われているようですが、わたしの施術に置いては、主導権を握るのは終始一貫して相手の体だという点。

なぜなら、その人に関する問題の解決方法や答えは、全て今ここにある相手の体の中に必ずあるからです。

 

 

 

振り返れば、これまでわたしの施術を受けてくださった方の多くが、施術後の感覚を、「響く」とか「波」とか「リズム」など、音楽的な表現をされていたことを思い出しました。

実際に施術を体感してくださっていた皆さまが、ちゃんとヒントをくださっていたのに、気づけなかっただけだったんです。

申し訳ない、もったいないことをしてしまった、、、と、ただただ反省し後悔するばかりです汗①

 

 

この方がどんな部分から、調律師という仕事とわたしの施術の共通点を感じ取ってくださったのか、全てを理解しているわけではありませんけれど、

少なくともわたしの施術を受けてくださったときの体感と、その後の体(や心)の変化から、相通じる何かを感じてくださったのだと思います。

わたしが施術で大切にしていることを真摯に受け取ってくださり、それをこうして、わざわざ伝えてくださった。

それが本当にありがたくて、うれしくて、こんなに素敵なお客さまに恵まれて、表現しきれないくらい感謝でいっぱいです。

 

本当に大切なこと、どうしようもなく伝えたいことって、なかなか言葉で表現できないものなのかもしれません。

でも、その伝えにくいものをどうにかして伝えようとすることが大切で、そんな葛藤や工夫を重ねていく中から新しい何かが生まれてくるのかもしれませんね。

 

 

 

体を調律する

 

この言葉は、今思いつくどんな言葉よりもわたしの施術の核の部分を伝えてくれています。

わたしの施術を体感し、理解してくださった大切なお客さまからの大切な言葉。

感謝の気持ちとともに、

相手の方の体の声をただひたすらにきちんと聴くことができるよう、

体が本当に望む反応を引き出すことができるよう、

そして体と心と魂の調和を感じながら最高の自分で毎日を送っていただけるよう、

体と心の調律師として、自信と誇りをもって進み続けようと思います。

 

まだまだ未熟なわたしではありますけれど、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

自分を諦めない、愛し尊重する

2018/11/18

わたしがこの仕事を始めて2年後くらいから、メンテナンスのためにほぼ月一で通ってくださっている方がいらっしゃいます。

本当にありがたいことです。

その方が先日、施術の後でこんなことをおっしゃいました。

 

 

「きっと世の中の人のほとんどは、このくらいの年(50代半ば)になれば、四十肩や五十肩、腰痛とかあっても仕方ない。ずっと付き合っていくものだと思いこんでいると思うんですよね。

わたしもそう思っていたし。

でも、そうじゃないんだ!ちゃんと自分の体を大切にして向き合って、きちんとケアすれば大丈夫なんだ!って分かったことが、本当に幸せだなって思うんです。

ほとんどの人は知らないですよね、知ってもらいたいなぁ!

諦めちゃうなんて、本当にもったいないですよね!」

 

この方がおっしゃるように、ほとんどの人が、年をとったら体がダメになって当たり前、痛いところがあって当たり前、だんだん動かなくなって当たり前って思っていて、それが当然のこととして受け入れられて常識になっています。

そりゃ、60、70になれば、20代、30代のころのような体ではいられないし、体力や筋力も衰えます。

だけど、だからっていたくても仕方ない、動けなくても仕方ない、だからこれもあれも諦めなきゃならなくても仕方ないなんて、悲しすぎます汗①

そんなこと、いったい誰が決めたんでしょう?

 

 

 

周囲を見回してみれば、80代になっても元気にしゃんとして、楽しそうに旅行をしたり働いたりしている方は、たくさんいらっしゃいます。

この前読んだ雑誌には、103歳で現役スイマーのおばあちゃまの記事が載っていました。

この方が水泳を始めたのは80歳だったそう。

それから何度も自己新記録を更新し続けて、マスターズの記録保持者でもあるそうです。

すご~~~い!!ですよね?!

 

 

この方の行動の原動力になっているのは、きっと好奇心なんだろうなと思うんです。

好奇心って、「それはどんな物なんだろう?どんなことなんだろう?」という、その存在に対する興味だから、好奇心が働く時には、その後の結果がどうかなんて、あまり考えないんじゃないかな?

「やってみれば分かるはず」とか「やらなきゃ分からない」

ただそれだけなんだろうなと思います。

だから、好奇心いっぱいの人の中には、きっと何も行動することなく諦めるということはないんでしょうね!

 

 

 

諦めって、本当に全てのエネルギーを奪ってしまいます汗①

「わたしなんでどうせダメよね」と諦めた瞬間に、やれば形になるはずの努力もしようとしなくなります。

しかも、自分が諦めているという自覚すらないことが結構あるものです。

わたし自身、かつては自分の全てを諦めていて、その自覚もなかったということに、長いこと気づいていませんでした。

そしてそれに気づいた時に同時に気づいたことは、、、

 

何もせずに諦めていたのは、自分の可能性を全て否定していたから、

自分にはそんな力はかけらもないと信じていたから、

自分を大切にしていなかったから、ということでした。

 

愕然としました。

泣いて、泣いて、泣きました(T_T)

 

 

 

けれど、ほんの小さな可能性でも自分の中に見出して、それを持つことを自分に許してさえあげれば、その可能性を広げるためにできることを少しずつ考えようとし始めます。

諦めている自分から、可能性を信じる自分へと、ほんのちょっと向きを変え、その方向に向かい続けると決めること。

ただそれだけで良いんです。

そうやって、可能性を信じる自分でいる道を一日、二日、一週間、一か月、一年間と進んでいくうちに、「ただそれだけ」のことが大きな結果として表れるんですね。

諦める自分は、もうそこにはいないはず。

 

 

 

「以前はすっかり諦めていた」というこの方も、今では、

「欲張りかもしれないけど、死ぬまで気持ち良い体で、全てを楽しんで過ごしたいなぁ~って思います♪」

と、伸び伸びとした体で、生きることの全てを楽しんでいる未来のご自身の姿をしっかりイメージされているようでした。

 

どんな自分でいたら幸せなのか?どんな自分だったら心地良いと感じられるのか?というイメージをしっかり思い描いて、そんな自分になるんだ!と決めて、諦めず、方向性を見失わずにいること。

それをいつもどれだけ意識していられるか、その積み重ねが自分らしい生き方となるんだな、と感じます。

あ、あくまでも妄想を楽しむように、遊び心を忘れずに、ね♬

 

 

 

自分を諦めないということは、自分を大切にすること。

自分を尊重し愛すること。

それが人生に必要な全てなのだと思います。

 

 

 

”今ここ”を味わい尽くすことこそが幸せ

2018/11/11

 

幸せというのはゴールではなくて、幸せに向かっているその道のりのことなんだよ

ある方がこのような内容のことを言われていて、この言葉を聞いた当時は、正直あまりピン!と来ていなかったけど、今になると「本当にそうだなぁ」と実感します。

 

 

わたしは自分自身に戻るために長年いろいろ試してきましたけれど、本当の意味で自分の気持ちに正直になることができてきたのは、「自分の体の感覚を大事にする!」と決めてからのような気がします。

何かをするとき、
何かをされたとき、
何かを言われたとき、
誰かの話を聞いたとき、
何かを経験したとき、

その時どきに自分の中で感じるモヤモヤっとした感覚や、
言葉では表現できないし、あえて言葉にするほどのことではないけれど、それでも確かに感じるちょっとした不快感、

そういった些細な感覚や感情を放っておかずに、「これはいったいなんだろう?なぜこんな感覚になるんだろう?」と、一つひとつしっかり意識するようにし始めたことがあって、それはいまも大切に続けているんですけれど、、、

 

 

そんな風に自分の体が発する感覚を、快も不快も分けることなくしっかりと感じるようにしていると、その都度「じゃ、どんな感覚でいられたらうれしい?」「この先どんな風に感じながら過ごしたい?」と、無意識のうちに自分に問いかけるようになっていました。

そして、そんなことを繰り返していたら、自分が幸せになるための方向性というのでしょうか?
「こんな自分でいられたら幸せ!」ということが、言葉ではなく体の感覚としていつの間にか分かるようになっていました。

そして冒頭の言葉の意味が、少しずつ理解できるようになってきました。

理屈ではなく体で。

 

 

幸せに何か形があるような気がして、「わたしにとっての幸せとは?」と頭で考えてひねり出そうとしてきたけれど、実は、今ここで自分が腹の底から「楽!」とか「楽しい!」とか「うれしい!」とか「幸せ!」と感じているのかどうか、

幸せというのは、ただそれだけのことなんですよね。

 

反対に、ほんのちょっとでも胸がギュッとしてしまうとか、お腹が重く感じてしまったり、どこかに何かしらの不快感を感じるのは、「何か違うんじゃないの?」という、自分自身からのシグナル。

そのシグナルを無視しないで、体が教えてくれる正直な気持ちを認め、受けとめて、それに応えてあげるようにさえしていれば、それだけで、自分にとっての幸せの道へと戻ることができるはず。

 

 

先日、あるお客さまから、「こうすれば良いと分かっていても、なかなか一歩を踏み出せないんです」とご相談を受けました。

色々な自己啓発本などにも、最初の一歩は目をつぶっていても24時間以内に確実にできるくらい、小さなステップにしましょう、と書かれています。

いろんな方のお話をうかがっていると、それでも皆さん、まだまだ大きな一歩を踏み出そうとしているのだな、と感じます。

だって、「できない」ということ自体が既に無理な目標設定なんですよね。

ただ自分ではそのことに気づかないもの。

わたしがそれに気づくことができるのは、わたしも同じようなことを繰り返していたという過去があるからなんですけれどね(笑)

 

 

わたしが彼女にお伝えしたのは、

「こんな自分でいたら楽だな~という方向を向いてみる、ただ向きを変えてみる、ということはできませんか?」

すると彼女は、「それならできますけど、それだけで良いんですか?????」と。

本当に?が5つくらい付いているぐらいに、疑いの眼差しに満ちていました(笑)

はい、最初の一歩は、バカらしいくらいにハードルを低く設定するのがお勧めです(笑)

 

 

わたしが長い年月をかけた末に分かったのは、物事って本当にシンプルなんだな、ということ。

嬉しくて、楽しくて、体のどこにも違和感や不快感を感じずにいられるなら、それをただ楽しめば良い。

でも、楽しいは楽しいんだけど、どこかむなしさを感じたり、胸が苦しくなったりと違和感を感じるのであれば、それは自分にとっての幸せではないのかもしれません。

今ここの自分の感情や、それを伝えてくれている体の感覚にただ素直になる。

それを繰り返しているだけで、自分がどうなりたいのか、自分にとっての幸せは何なのか?が、自分の体丸ごとで理解できるようになります。

そして自分の進みたい方向が分かれば、その道を外れないように進むだけ。

時には間違ってしまったり、道を外れてしまいそうになることもあるけれど、何度間違っても、何度外れても、その度に「あぁ、こっちだった!」と、その道へと向きを変えれば良い。

そうやって「ただそれだけのこと」を繰り返していると、ある日振り返ってみたら、いつの間にか、一歩どころか百歩くらい進んでいた!ということになっているんですね。

「ただそれだけ」を大切に積み重ねる、それは本当に大切なことなんですね。

 

 

今ここにある些細な感覚や反応の全てを大切にする。

これはリラクセンスで最も大切にしていることで、これを抜きにはリラクセンスという手技は成り立たないくらいです。

 

誰の中にも、その人だけの楽や幸せの形があります。

その道のりで経験できる全てを、今ここで味わい尽くすこと、それが幸せなんですね。

 

 

今まで知らなかった自分に会った!

2018/11/7

ブログをご訪問くださってありがとうございます。

 

 

かなりご無沙汰してしまっているうちに、季節は晩秋から冬へと向かっていますね。

皆さま、お変わりなくお過ごしでしょうか?

わたしはここ数年続いている大きな変化の終盤に差しかかっているな~と感じつつ、大波小波を感じつつ(笑)、静かに穏やかに日々を送ることができています。

感謝です。

 

そんな中、4年前にリラクセンスのモニターを受けてくださった方が、久しぶりに施術を受けに訪ねてくださいました。

 

 

 

4年という歳月の間に、歯車を狂わせるような様々なことがあり、どん底に落ちてしまったように感じられ、もがきにもがいて、それでも抜け出すことができず、途方に暮れて疲れ果ててしまったとのこと。

どうにもできずに半年ほど過ごしていた時に、ふと、4年前のリラクセンスの気持ちよさそを思い出してくださり、ご連絡くださったということでした。

苦しい中で思い出していただけたことがとても嬉しく、なんとか立ち直るきっかけをつかんでいただけたら・・・と思いながらお迎えしました。

 

 

 

彼女には、1カ月弱の間に3回の施術を受けていただきました。

1回目は、バラバラになってしまった体や心を一つにつなぐことを目的に、

2回目は、最も緊張の大きかった脚や腰の歪み改善を目的に、

そして3回目は、強い緊張が残っていた頭や顔、首周りを中心に。

必要に応じて整膚とリラクセンスを組み合わせ、最適と思われる施術を行わせていただきました。

 

 

そして3回目の施術の最後に、椅子で仕上げのリラクセンスを行ったのですが、それが終わった時の彼女の反応が、、、

 

「すごい!・・・すごい!・・・えー?なんて言ったら良いんだろう・・・すごい!!」と、後は言葉にできず、ただただ笑うばかり(笑)

今まで知らなかった自分に会った!っていうのかな?『こんなわたしがいたんだ!』って。ずっとこの自分でいられたら、すごく楽だなぁ~

 

体を通して、今まで知らなかった自分と出会った体験の驚きや戸惑いや喜びや、そういった言葉にならない感情や感覚を何とか伝えようとしてくださっていることが、お顔の表情や体全体から伝わってきました。

 

 

 

普通の一般的な施術は、表れている症状に合わせて、いわばセラピストが主体となって施術を行いますが、

わたしが行なっている施術は、相手の体がどのように反応するのか、それだけを手掛かりにします。

その反応にセラピスト側が寄り添いフォローすることで、体は次の反応を示してくれます。

そしてまたその反応に寄り添いフォローする。。。

その繰り返しによって、体は自分で勝手に緊張をほどいてくれるんですね。

体にはそのように、自らを良くしていくための機能が備わっているんです。

誰の身体にも。

ただ、その力を信じ切れるかどうか、それだけなんですね。

 

 

 

彼女にも事前に何度もそのことはお伝えしてはいましたけれど、頭では「そうなんだ~」と理解していても、今一つピン!ときてはいなかったようでした。

そしてそれが体感できたときに初めて、「あぁ!こういうことなんだ!」と体で理解できたんですね。

でもそれは、これまでの人生で感じたことのない想像を超えた感覚で、言葉で表現しきれないものなんですね。

 

 

 

彼女が「今まで全く知らなかった自分」と表現したのはどんな自分だったのか、そのことについてはまた後日書かせていただこうと思います。

その発見は、彼女にとって体に対しての認識という枠を超えて、人生の様々な場面にも影響するような大きなものだったようでした。

 

 

 

腰や足の痛みの原因になっていた歪みや、お顔や頭のむくみや歪みもほぼ解消されたようで、とても喜んでいただけて、3回の施術でめでたく卒業となりました♪

「これからは自分がどちらを向いていきたいのか、しっかり意識します」

「調子が悪くなったらまたお願いします!ありがとうございました♪」

そんな言葉を残し、軽やかに晴れやかに去っていく後姿を見送りながら、ありがたい仕事をさせていただいていることに、涙が出そうになりました。

こちらこそ、ありがとうございます。

 

 

 

体の声をしっかりと聴くことさえできれば、そしてその声に寄り添うことさえできれば、体はこんなにも早く、気持ち良い感覚の中で、楽になることができるんです。

ただ、それはこれまで体験したことのない感覚なので、そして一人ひとり体感は違うので、言葉で説明して全てを理解していただくことの難しさをいつも感じますけれど、、、

それでも諦めずに伝え続けていこうと思います。

だって、みんなが気持ちよく楽に、幸せに暮らせることが一番だと思うから。

皆さまにも応援していただけたら、とても嬉しく思います。

 

 

 

死の中でも生は輝き続ける

2018/9/29

いつの間にか、金木犀が香る季節になりました。

季節の変わり目、とにかく気温差が激しいですね汗②

こんな時は自律神経のバランスを崩してしまいがち。

ゆっくりとご自分の体にやさしい目を向けて、しっかりと休息をとってくださいね。

 

 

 

先日、動物のボランティア仲間であり、お客さまであり、友人でもあった女性のお通夜に参列してきました。

このブログでもお伝えしたことがありましたが、癌に侵され、6月の後半から整膚を受けてくださっていた方でした。

 

 

彼女が癌に侵されているとわたしが知ったのは、3月半ばのことでした。

聞けば今年の初めに癌であることが発覚し、それ以来闘病を続けていたとのこと。

そして6月の半ば過ぎに、完治に向けて集中的に施術を受けたいとご依頼を受けました。

それ以来、ほぼ1週間に一度の割合で、ご自宅や病院に伺って、整膚を続けてきました。

 

 

元々とても前向きで、精神と体の関係をよく理解されている方だったので、「癌になったのはこれまでの生活習慣や食生活など、自分に原因があったはず。それを正していけば、必ず治ると信じている」

「とにかく免疫力を上げて、心身のバランスを取り戻さなきゃ!」

そう言って、いつも前を向いて進んでいました。

 

 

ですが、既に頸骨に転移していた癌細胞は、休むことなく彼女の体をむしばんでいきました。

体は徐々に痩せていくばかりでしたが、そんな中にあっても彼女の瞳は常に生命力に満ち溢れ、強さを失うことなく輝き続けました。

そして、とても不思議ぎなことなのですけれど、生理的、肉体的には弱っていっていると思われるのに、触れた手に感じる彼女の身体からは、いつも生命力があふれているのでした。

毎回毎度、間違えようもなく、生き生きとしたエネルギーを感じるのです。

そしてそれは最期に会った死の前日まで変わることはありませんでした。

 

 

 

一般的には、生と死の間には大きな隔たりがあり、死んだら全く別の世界へ行ってしまう、いなくなってしまうと思われがちですけれど、

彼女との最期の3か月を通して、そして最期まで生きようとした彼女の姿を目の当たりにして、わたし自身が身体で受け止めたのは

 

死は生の一部であること

死の中にも生があること

死に向かう肉体の中でも魂は強く生きようとし、永遠に生き続けるのだということ

 

癌と闘い続けて、一般的に言えば“癌に負けた”と言われるような形だけれど、そうではなくて、

彼女の魂は最期まで前をしっかりと見つめて立派に生き続け、そして今も生き続けているのだということ

 

 

うまく言葉にできないけれど、、、

これまでも今も、彼女の魂=本質は力強く生き続けているのだということが、疑いようのない事実として、理屈抜きで信じられるのです。

 

 

 

最初から最期まで、彼女は信念の人でした。

そしてわたしのことを全面的に真っ直ぐに信頼しきってくれていました。

その信頼に応えられたのかどうか、その自信は今もみじんもありません。

でも、彼女が信頼しきって最期の時を共に過ごさせてくれたことの意味を深くしっかりと受け止めて、彼女が遺してくれたとてつもなく大きな課題と正面から向き合って、

これからもわたしを必要としてくださる方がいれば、その信頼に応え続けようと思います。

そうすることが、わたしから彼女への精一杯の感謝のしるしになると思うから。

 

 

 

 

心と体の真ん中に まぁるい空間を

2018/8/14

気づけば半月以上もブログを書かない日が続いていました汗②

その間に月は変わり、立秋も過ぎ、お盆を迎えていますね。

 

 

そんな中、日々起こることをできるだけ丁寧に拾い集めていたら、

この夏の大きな気候の変動に呼応するように、心身ともに変化を迎えていらっしゃる方が多いことに気づきました。

 

 

その変化があまりに大きくて、どんな風に変化していくのか分からなくて不安になってしまうこともありますけれど、必ずや奥底にある自分の本音、魂の願いの通りになっていくはず。

だから決して自分にウソをつかないように、自分で自分をごまかさないようにしていたいですね。

 

 

 

心にも体にも

何のわだかまりもなく つっかえ棒もない

内側にぽっかりと

まぁるく温かい空間を広げてあげましょう

そしていつもそこで自分自身を

気持ちよく くつろがせてあげましょう

 

 

 

弱さがあるから強くなれる

2018/7/24

先日、姉のお友だちがお母さまと一緒に整膚を受けにいらしてくださいました。

そのお友だちはずいぶん前に整膚を受けてくださっていて、今回はご自身のことももちろんなのですけれど、お母さまのケアを一番に考えていらしてくださったのだな、と思いました。

というのも、お母さまは何年か前に事故に遭った際大けがを負い、それ以来、体のあちこちが緊張して、様々な刺激に敏感になっていらっしゃるようで、強い刺激では体への負担が大きすぎるとのことでした。

そこで、整膚なら気持ち良く体もほぐれるのでは?と考えて、お越しくださったわけなんです。

 

 

最初こそ、緊張が強くて引き連れ感のある部分の肌は、ちょっと痛いと感じられたようですが、痛みを感じない程度の弱い力で軽く触れていくうちに、徐々に緊張もほどけてきて、「気持ち良いわね~」と、ウトウトされていました。

眠くなる、いつの間にか眠ってしまうということは、体がその刺激を気持ち良く受け容れている証拠。

わたしにとっては、どんな言葉よりも感じていらっしゃることを伝えてくれていると感じられます。

 

 

 

わたしのところにいらしてくださる方は、「押されたり揉んだりされるのが苦手」とか、「強いマッサージだとかえって具合悪くなっちゃうの?」というような、一般的な施術が体質や好みに合わないという方がほとんどです。

今回も、新たにいらしてくださった方の施術をしていて、これまでずっとやってきたこと、学んできたことの全てが一つにつながったような、不思議な感覚に陥りました。

 

 

わたしのところには、たくさん存在している人の中で、様々な意味で外部からの強い刺激に敏感に反応する方々、つまり刺激に“弱い”方々が来てくださること。

リラクセンスや整膚で学んだ、“弱い”力で相手の体に寄り添い、その治癒力を引き出すこと。

わたしが行なっている施術は、体の中の一番緊張の強い部分、つまり体の中で一番“弱い”部分、一番“弱い”力で寄り添う必要がある部分を基準として向き合うものであること。

 

このように、わたしの施術を語るうえで、“弱い”という言葉は欠かせない要素になるんだなぁと気づいたのですが、“弱い”という言葉にも様々な意味合いがありますね。

・力や技が劣っている
・心身が丈夫でない。病弱である
・意志が堅固でない。心がぐらつきやすい
・環境や条件に屈しやすい。物事に耐える力が乏しい

などなど、誰かの助けを必要とするか細いイメージを伴う言葉ではありますけれど、一方で、

・程度や度合いが小さい
・ゆるみがある。固くない

など、“優しい”という言葉に置き換えられるような、柔らかなイメージを持つ言葉でもあります。

 

 

わたしがこれまで行ってきたことは、そしてこれからも続けていくだろうこと、大切にしていくべきことは、目の前の相手の方の最も“弱い”部分と向き合い、そこに“弱い”力で“優しく”寄り添うことなのだな、と。

そして、「この自分で大丈夫なんだ!」と、その方が安心して次へと進むためのきっかけ作りやお手伝いをさせていただくことなんだな、と。

“弱い”という言葉がキーワードとなって、自分の道をはっきり見せてもらったような感覚になりました。

 

 

 

人間は強くて弱い。

強いだけの人間もいないし、弱いだけの人間もいない。

誰かが自分を頼りにしてくれるときは、喜んでそれに応えられるだけの自分でありたいと思いますし、

また自分がどうしようもなく弱った時には、やっぱり誰かに寄り添ってほしいと思うし、そんな自分の弱さを丸ごと受け容れて、素直に助けを求められる自分でありたいとも思います。

本当の強さというのは、今現在の自分の弱さもダメさも全てそのまま受け入れて、素直に認められることだと思うから。

“弱さ”は確かに弱さではあるけれど、そこに寄り添った時に初めて本当の“強さ”を引き出すことができるのですね、きっと。

 

 

”祈り”の時間について

2018/7/21

毎週日曜日の22時から30分間、祈りと遠隔氣療の時間を持っています。

最初の15分間はご希望くださる方と一緒に、世界を幸せで満たすため、地球を癒すための“祈る”時間とし、後半の15分間はご希望くださる方へ遠隔氣療を行っています。

元々は遠隔氣菱だけを行っていたのですけれど、2018年の7月から皆さまとともに”祈り”の時間を持とうと決めました。

なぜ皆さまとの祈りの時間を持とうと思ったのか?

また、どの様なことを、どのように祈るの?など、わたしの想うところをご理解いただき、ご賛同くださった上でご一緒していただきたいと思いますので、ご一読いただけますようお願いいたします。

 

 

わたしたちが住む地球は、至るところで様々な問題が起こっています。

たとえ遠い場所で起こっていることであっても、直接自分の人生に関係ないと思われるようなことであっても、同じ地球に生を受けたわたしたちにとって、起こっていることは全て、決して無関係ではありえません。

そしてその物事を解決するために直接できることがないとしても、「皆にとってベストな形に変化していきますように」と祈ることはできますよね?

 

わたしは祈りの力を信じています。

もちろん一人で祈ることはできますけれど、皆が力を合わせて無心に祈るとき、物事を動かす大きな力になると信じています。

そして今、皆が心を一つにして世界の平和と幸せのため、地球を癒すために祈ることが、とても必要なのではないか?と痛感しています。

もし同じように思ってご賛同くださる方がいらしたら、ぜひご一緒に心を合わせてお祈りしていただければと思います。

 

 

ここでお伝えしておきたいことがあります。

“祈る”という言葉を使っていますけれど、決して宗教的なものではありません。

ですので、祈る対象は神さまでも仏さまでも、イェス・キリストでもアッラーでも、大いなる存在でも、全く問いません。

各自が信じる“存在”に対してお祈りしていただければと思います。

大切なのは、心を一つにして、自分自身を含む全ての生きとし生けるもののために良きことが起こるようにと意識を向けること、です。

 

またその際、一つだけ心がけていただきたいことがあります。

「被害が少なくなりますように」とか「戦争がなくなりますように」など、マイナスに見える出来事を否定したり排除するような祈り方はしないでください。

代わりに、「みんなに平安が訪れますように」「世界が愛と平和で満たされますように」など、望む状態をプラスの言葉を使ってお祈りしてください。

理想とする素晴らしい世界を思い描きながら、愛や平和、豊かさや思いやりなどに意識を向けてお祈りしてください。

意識を向けたモノ、コトを拡大させるのが意識の働きです。

好むと好まざるとに関わらず、マイナスにフォーカスすれば、そのマイナスを拡大してしまう結果になるのです。

ぜひこれだけは忘れずに、お祈りしていただければと思います。

 

 

もし賛同くださり、ご一緒にお祈りしていただける方は、いつものようにコメントくだされば心強く嬉しいですけれど、ひっそりと気持ちを合わせてお祈りしてくださっても嬉しいです。

どちらでもお気持ちにお任せします。

そして遠隔氣療にについての詳細はこちらに書いてありますので、ご希望される方はご一読いただいた上でお知らせください。

 

 

この取り組みによって一人でも多くの方のお気持ちがひとつになり、たくさんの方々の幸せと平和につながることを心より願っております。